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夢は叶う〜片手で名刺交換をしていた僕がトップセールスになるまで〜

夢は叶う〜片手で名刺交換をしていた僕がトップセールスになるまで〜

はいさい、エレファントストーンプロデューサーの比嘉です!

普段お仕事をしたことのあるお客様やパートナー企業の皆様、いつも大変お世話になっております。この記事で初めて比嘉を知ってくれた方、初めまして!
本日はタイトルにもある通り、「片手で名刺交換をしていた僕がトップセールスになるまで」と称して比嘉の歴史を紐解いていければと思います。

どん底(0ではなくマイナススタートです)から這い上がった過程を赤裸々に伝えることで、仕事、恋愛、日常がうまくいかない、目的を見失って充実しない、等、悩みを抱えている方に希望を与えられたらと思っています。

「こいつ(比嘉)がここまでできるのであれば、自分も頑張ればいけるんじゃないか」という勇気を与えられる記事になれば幸いです。また、会社に所属して働いている皆様にこの記事を通して強く言いたいメッセージもあります。それは一言で、「会社は夢を叶えるところ」であるということです。自分の夢を叶えるために会社と共依存の関係になりましょう。

そして、以降は心の声です。

  • 記事を通して比嘉のイメージをUPさせたい。ファンが欲しい。
  • これまでに比嘉と接したことのある方、「あれ?この人(比嘉)、もしかしてちょっと変?」と違和感を感じたことがある方に、この記事を読んで納得感を覚えてスッキリしてもらいたい。

この記事はそんな想いで書いています。

映像プロデューサー比嘉の生い立ち(エレファントストーン入社前)

比嘉賢多
沖縄出身。学生時代からドキュメンタリー制作を行なっており、大学卒業後はフリーランスのディレクターとして映像のディレクションを行う。監督、撮影を行ったドキュメンタリー映画はPFFアワードをはじめ国内外の映画祭で入選、受賞。地域やコミュニティに密着した取材を得意としており、沖縄独自の村行事や文化の保存に映像制作で貢献してきた。クライアントとの関係性を重要視しながら、被写体や商品の魅力を十二分に引き出す映像制作を心掛けます。

弊社コーポレートサイトメンバーページより抜粋

上記からさらに深堀って、比嘉のパーソナルな部分についてお話しします。

エレファントストーンに入社する前の比嘉を一言で表すと、沖縄出身のドキュメンタリー映画バカでした。中1の頃にジム・ジャームッシュの映画を観てから映画の世界に陶酔し、大学の卒業制作でドキュメンタリー映画を作成してから、ドキュメンタリー映画の世界に陶酔しました。

大学を卒業してから4年程は就職もせずに、自分でドキュメンタリー映画をつくりながら、フリーでできる映像の仕事を細々と行っておりました。なので、比嘉のことを「営業の人」と思っている方も多くいらっしゃるかと思いますが、ドキュメンタリー映像であれば自信を持ってディレクションできます。

ブランクこそあれど、誰よりも面白いドキュメンタリーを撮れる自信は今でもあります。なぜ、面白いドキュメンタリーを撮れる自信があるかというと、自分の作品をより良くするため、取材対象者にとって有意義な会話をコーディネートするための“「遠慮」という概念を限りなく0に近づけるマインドセット”が先天的に備わっているからです。

ゆえに遠慮を全くせず「人が考えているコアな本音」に対して近づく自信がありますし、ある意味それを「コミュ力」と勘違いしたまま社会に出ることになったため、エレファントストーン入社1年目は地獄のような日々を送ることになります…

エレファントストーン入社1年目〜暗黒期

エレファントストーン入社1年目、これは僕の“超迷走期”にあたります。“暗黒期”ということで、普通だったら100%理解できない奇行や蛮行、失敗の巣窟です。そのため、この項を読んでいただけますと99.9%の方に「私の方がマシだな」と自信を持ってもらえると思います。

迷走1:面接時の奇行

大学を卒業して4年程が過ぎた時、映像の仕事だけでは食べていけない状況で、流石にこのままの生活を続けていると結婚して子どもを授かって両親や家族を喜ばせるという夢は叶わない…と思い、就職活動を始めることを決意します。

当時は「人生で初めての就活にコケてしまうと本当に人生が終わる」くらいの覚悟だったため、ただ履歴書を送って面接を受けるという、みんなと同じ方向を向くことはせず“圧倒的な差別化”をはかりたいと考えていました。ここまではなんか戦略家ぶってますが、その後起こす行動がリミッターが外れ過ぎているので、笑ってください。

なんと私比嘉は、“今在籍しているエレファントストーンへのファーストコンタクトを、アポ無しで行いました(震)”

アポ無しで会社に突撃し、その場で履歴書を出し「もしも良ければ僕の面接をしてくれないですか」と申し出たのです。当時を振り返って、弊社代表の鶴目は下記のようにコメントしております。

鶴目コメント
いやー、まさかこのご時世にアポ無しで面接を受けにくる人がいるってことを全く想定していなかったので、面接の予定をカレンダーに入れ忘れたと思って焦ったんだよね。

ただ、本人に聞いてみたら“なんも約束してない”ってことだったから、とりあえずその時間に空いていたマネージャークラスのメンバーの嶺くんに急遽面接してもらったんだよね。

そんな嶺さんとの緊急面接。当時は1時間半くらい経っても終わる様子がなく、心配した鶴目さんが面接中の部屋をこっそり覗いてみると、嶺さんと比嘉が固い握手を交わしていたとのことでした…

迷走2:社会人マナー「-100」

面接時の奇行を経て、比嘉は奇跡的にエレファントストーンに入社します。プロデューサーという職種(一般企業で言うところの営業職をイメージしてください)を希望し、配属されました。エレファントストーンの中でも最も社会人マナーが求められる部署への配属です。

今思うと、これまで野生に生息していた状態の人間に社会人マナーを期待するのがそもそも間違いかもしれませんが、会議の時の席次や議事録の取り方は当然分かりません。

極め付けに初めての名刺交換は片手で行いました。弊社メンバーは当時の比嘉を振り返って下記のように語っています。

メンバーコメント
そこから?って思いましたね。名刺を片手で差しだす人はフィクションの世界以外で初めて見れたので、ちょっと得した気分でした

迷走3:激しい議論によって作品(プロジェクト)は研磨されていくという勘違い

タイトルからお分かりかもしれませんが、当時の比嘉はクライアントと喧嘩します。具体的な内容に触れることはできませんが、当時は「激しい感情と想いのぶつけ合いによって作品やプロジェクトはより良くなる」という大きな勘違いをしていたので、社内外問わず“何かと牙を見せる”、“とにかく爪痕を残す”といった蛮行に出始めます。

当然、社内からは相手にされないし、社外からはお叱りの声をいただくことになります。上記はほんの一部で代表的な奇行、蛮行です。こんなプロデューサーが当然結果を出せるわけもなく、“誰からも評価されない”1年を送っていました(少し大袈裟かもしれません)。

この時に「流石にこのままではいかん。自分のスタンスを180度変えるくらいの変革を起こさないと」と考え始めました。

エレファントストーン入社2年目〜郷に入っては郷に従え&自分のコアな個性を信じ貫き通す

1年目の“暗黒期”を経た比嘉はとにかく根本的に変わる必要があったため、社会人マナーを身につけるためにあらゆるマナー本を読破しました。正直、厳守しているものと忘れてしまって実践できていないものがありますが、とにかく読んで知ることが大事だと思い、自分の背中を押しました。

こうした行動によって、お客様から「比嘉さんは常識がある人」「ちゃんとしている人」と評価いただくケースも徐々に増えてきました。

一方で、ただ常識があって可も不可もない感じの人間にはなりたく無かった&それは営業としては埋もれる、という自分の中での確信があったことから自分のコアな個性は大切にしようと決めていました。

その個性とは、“自分がドキュメンタリー制作で培った顧客との関係性構築を絶対的に信じ抜く”ということです。“遠慮0で踏み込む”、“激しい議論で研磨する”というアプローチ自体は間違いだと気づいて改善しましたが、アプローチは違えどゴールは一緒で“お客様との関係性構築”をすること。

ドキュメンタリー制作で最も意識を強く持っていた“取材対象者との関係性構築”を営業における対象(=お客様)に置き換えて実践してみるとお客様からの評価はさらに上がり、扱う案件数が増えました。

結果的に、入社から丸2年が経った時には部署内で一番売り上げを出せるプロデューサーに飛躍してました。

入社3年目以降〜トップランナーを走りつづけ、自分のやりたいことを仕事にする

爆発的に売り上げを伸ばした2年目を経て3年目以降、今に至るまで、常に昨年度の自分の売り上げを更新するかたちで、数字を伸ばしてきました。会社の9期〜14期に至るまで、9期、11期、12期、13期、14期と部内でナンバーワンの売り上げを出しています(10期のみ拮抗して惜しくもトップではありませんでした)。

それに連動する形で3年目以降は特に自分の個性が社内に受け入れられ、自分がやりたかった仕事に注力させてもらえるようにもなってきました(厳密にいうと2年目から携わらせてもらってましたが)。

その最たる例として、「フィルさと」という地域PR映像特化型の映像制作サービスに立ち上げから参加させていただき、そのサービスへの問い合わせ〜プロジェクト対応を全て任せてもらえるようになりました。

私は沖縄でドキュメンタリー作品の制作や映像の仕事をしていた背景から、“地域の方と一緒に映像をつくる”ことを仕事にするのが夢でした。社内からの信頼を獲得してフィルさとを任せてもらえるようになったことで、現在は年に数件単位で色々な自治体さんと仕事をさせていただいています。

  • 地域密着の仕事がしたい
  • ドキュメンタリーの制作がしたい

という二つの想いの集大成としては、2021年に「相馬野馬追 一千年続くその理由」という、感染症が流行した年の南相馬市を舞台にしたドキュメンタリー映像のメインプロデューサーも務めさせていただきました。

これは、“会社を通して自分のやりたいことが実現した”瞬間で、これまでの経験の何にも変え難い喜びを感じた瞬間でもありました。

そして現在

冒頭で、「結婚して子どもを授かって親を喜ばせて」という話をちらっとしましたが、その伏線も回収します。

お金も、経験も、営業の知識も、コネクションも全く無く、良い歳にもかかわらずほぼプロパーと変わらなかった(下手するとそれ以下か?)自分が、現在は妻と2人の子どもに恵まれ、両親にも孫の顔を見せることができました。

ただそれは、仕事を頑張ることで会社からの報酬が上がり、結婚して子どもを養えるくらいの経済力がついた結果できたことなので、“自分の力”だけではなく“会社の力”も使って「そうさせていただけている」という感覚を強くもっています。

何が言いたいかというと、僕は「この会社に入って、いくつも夢が叶った、叶えてもらった」ということです。

まとめ

仕事、恋愛、日常がうまくいかない、目的を見失っていてなんだか全てが充実しない…そんな悩みを抱えていらっしゃる方を、私は声を大にして応援して勇気づけたいです。

どんな悩みや夢も、会社を通して解決・実現できることがあるはずで、その接点を探し、実現に向けて行動していくことが重要だと思います。

「会社は夢を叶えるところ」です。活躍して利益貢献することは必ずしも“歯車になる”ということではないです。語弊を恐れず言うと、自分の夢を実現するために会社や業務を“利用”することで、人生は豊かになりますし、今のところ、自分が叶えられなかった夢はないです。

ここまで走っても夢を叶えてきても、なお欲張って、現在私は次の夢を追ってます。絶対叶えてみせます。自分が次に叶えたい夢は二つ。

  • エレファントストーン沖縄支社を設立する
  • (最終的に)偉人になる

馬鹿らしいかもしれませんが大真面目です。一緒に夢を叶えてくれる方、募集しています。また、この記事を読んで少しでも「比嘉面白いな」と思ってくれた方は、仕事以外でも雑談でもなんでも、ぜひお問い合わせください。


 

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この記事を書いた人

比嘉賢多
エレファントストーンのプロデューサー

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