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アフォーダンスと私たち 第5回 -ナッジについて②-

アフォーダンスと私たち 第5回 -ナッジについて②-

エレファントストーン エディターの今津です。

前回紹介したのはナッジについてでした。ナッジとは一言で言いうと、「人が〈つい〉(=自発的に)運営者が求めるような方向に行動を変容してくれるように環境を変える」そんな仕組みやデザインや考え方のことです。

ナッジを可能にする根拠のようなものがあって、それはだいたいこの記事に書いてあるので、興味がある方はぜひ読んでみるといいと思います。
ノーベル賞で経済学賞で注目を集めた「ナッジ」とは何か

完璧なナッジと不自由

でも、なんだか、ナッジ、それを突き詰めていくと、それはSF的な世界観のように見えますね。例えば、『マトリックス』シリーズ。人は自分の人生を生きているように思っているだけであり、実際は呼吸器につながれてそんな夢を見ているだけ… …こういう自由意志否定系のSFはよくありますが、ナッジの思想の行きつきところと、似ているように思えます。

つまり、例えば完璧なナッジに基づくデザインを作ることができれば……人は作成者の思うように行動させることができるからです。しかも、つい、意識しない間に、あなたは、作成者が求める行動をとっている。

街のベンチ

初めて訪れる街で、私はなんとなく、この街にはベンチがあるのかな?ということを考えてしまいます。考えるというほど意識的ではありませんが、なんとなく、気にしてしまいます。

渋谷の街にも、ベンチがなくなっていたりするので、そういうのを見ると残念だなと思ってしまいます。 まあ、このご時世、人が集団で集まることをできるだけなくしたいという意図はわかりますが、ただ、街としては、少し寂しい感じになるな、と思ってしまいます。

街というものはただ歩いたり、買い物をしたりするだけではなく、立ち止まって本を読んだり、休憩したり、休憩していたら偶然友達と会って立ち話をしたり、そのついで飲みに行こうかってなって飲みに行ったり、そういう様々なコミュニケーションを産むような場所であったんだろうなぁと想像する。

よく聞く昔の話で、人は橋で顔をあわすことが多かったらしい。

橋というのが、味わいがあって、いい。

橋はたしかに、ある場所とある場所を結ぶ繋留点のようなものだから、そこで人と人が出会うのは当然なんだろうなと思う。小津安二郎の映画では、電車で人と人がよく出会っていたのも思い出す。そうした橋的なるものの、一つが街のベンチなのかもしれない。

大学にはたくさんベンチがあった。

ある日、風邪をひいている先輩をベンチでみた。先輩は金髪ショートヘアの30代(今の私と同じ年齢くらいだ!)の女性。彼女はいつも煙草を吸っていて、その日もこほこほと咳をしながらも確かメンソール系の煙草をまずそうに吸っていた。

ベンチがなければ彼女が風邪をひいていることはわからなかっただろう。

わかることがなんの利益になるのかは知らないが、なぜか風邪をひき、咳をしながらもまずそうにタバコを吸っていた彼女をなぜか今でも覚えている。大学にはベンチが沢山あって、そこかしことのベンチには人が密集していて、タバコを吸ったり偶然会ったゼミの友達やサークルの友達と話したりした。 そんなベンチで紹介された友達と、今なお仲良くたまに連絡を取り合う、なんてこともあります。

ホームレスとアフォーダンス

そんなベンチ。こんな記事をみた。
「排除ベンチ」抵抗した制作者が突起に仕込んだ「せめてもの思い」

アフォーダンスの悪用というべきか、排除アートと呼ばれるデザインがこの世の中にはあって、それは一言で言うと、「人を居つかせないようにするデザイン」だ。

じゃあ、ベンチをどうするかというと、ベンチに柵を設けるのだ。何を排除するのか。ホームレスだ。この記事では、ベンチのデザインを担当したデザイナーが、行政と折衝しながら、どうにか誰も排除しないベンチを作ろうとしたプロセスが書かれている。

結果、できあがったベンチはとても素敵なベンチだと私は思った。

そういえば、この記事はアフォーダンスについての連載の一部ということになっている。 いささかアフォーダンスから遠いところまで来たように思えるが、実はここにもアフォーダンスがいる。

ホームレスは、ベンチを不法占拠しているように見えるかもしれないけれど、実際、彼らの生きる欲望が、ベンチのアフォーダンスを「寝る場所」として解放した、いささか大げさすぎるかもしれないけれど、そうとも言えるのではないか。このアフォーダンス連載の視野の中では、ホームレスをアフォーダンスの能力が非常に高い人たち、あえて言ってみたい気持ちになる。

アフォーダンスを発見させるのは、生きる欲望だ。欲望の結果として、アフォーダンスが見いだされれる、と言ってもいいかもしれません。 自分の環境を、自分自身にとって居心地の良い場所にする。いろいろとややこしいことを言ってきた連載だったけれど、極論シンプルにいえば、そんなところだ。 人は、そうせざるおえないし、それは正しいことなのだろう。それを否定することは、生きることを否定することになってしまうから。

まとめ

この記事はナッジについての記事でした。そして、ナッジはいささか危険性もあるという感じもある気がする。けど、ベンチのことやアフォーダンスのことを書いていると、ナッジの危険性とは異なる可能性もあるなと思う。 それは、生きる欲望を、縮減するのではなく広げるようなナッジデザイン。それを享受する人の行動を広げるようなナッジデザイン。

もし、そんなナッジがあればぜひ見てみたいものです。

アフォーダンスと私たち -ナッジについて①-
映像づくりにも使える発想 犬小屋を通して「デザイン」を考える

この記事を書いた人

ZOOREL編集部
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