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映画『彼らは生きていた』評
―過去が現在になるとき―
エレファントストーンのエディター 今津です。
『ロードオブザリング』三部作に代表されるピータージャクソンが監督した『彼らは生きていた』の映画評論を書こうと思います。
白黒映像に色がつくとき
第一次世界大戦中に西部戦線で撮影された未公開の記録映像を、AI技術や最先端の3D技術を駆使してカラーリングし、それに加えて、当時は録音されていなかった兵士たちの会話や爆撃音や環境音を新たに録音し追加し、再構成したのが本作『彼らは生きていた』です。
ご存知の方も多いと思いますが、このAIによるモノクロのカラーリング技術は、実はこの作品が初めてではなく、ネットでも公開されているほど、近年脚光を浴びている技術です。Colorize Photosというサイトでは、モノクロ写真をアップロードすると自動的にカラーリングされ、写真のビフォーアフターを比較して見ることができます。
また、こちらの写真をご覧ください。
美ら島、よみがえる色彩 沖縄戦前写真をAIでカラー化
まさに、モノクロがカラーになるだけで、白黒で移された沖縄の昔の風景に生気が吹き込まれたような新鮮な驚きを感じないでしょうか?
ただ白黒画像に色がつくだけで、撮影された向こう側の現実自体の見え方ががらっと変わってしまうのはなぜでしょうか。『彼らは生きていた』は、このことを考えるためのたくさんの材料を提供してくれます。
私たちはいつも見損なう
西部戦線に参加していた人が過去を想起するナレーションとともに『彼らは生きていた』は幕を開けます。ナレーションと共に彼らが戦争に志願し戦線に参加するまでの記録映像が映され、そして、ある瞬間でその白黒の記録映像に色がつきます。
カラーになった瞬間、白黒の映像を観ていた視聴者は、カメラの向こう側にある現実に対して、大げさにいうと裏切られます。カメラの向こう側にある現実は変わらないのに、白黒映像になった瞬間、私たちはカメラの向こう側の現実を見損なっていたことに気づくのです。
白黒映像では気づかなかった戦士たちの笑顔、塹壕を荒らすネズミ、蛆虫がたかる死者、宣戦を離脱した兵士たちの基地でのスポーツ大会。そのどれもが、もしも白黒映像のままであれば、単なる「記録」になってしまったでしょう。
しかし、カラーで写されたその現実は、私たちにとって「記録」を超えた「現実」になるのです。
白黒は過去にする
向こう側にある現実は、白黒という表層を纏おうがカラーという表層を纏おうが、記録された方法に関わらずカメラの前に唯一無二の現実として存在しています。
しかし、その変わるはずのない現実は、白黒の荒れたフィルムという表層をひとたび纏ってしまうと、私たちにとっては、時間的に遠く離れた場所にあるフィクションのような様相を帯びてしまいます。つまり、白黒映像になることによって、カメラの向こう側にある現実には「過去」という刻印が押されるのです。
白黒映像は、ただ「白黒」という二つの色で現実を表象するというだけのことですが、この技術的条件は、写された現実を「過去」として表象してしまう、そんな機能があると私は考えています。過去という表象を現実に張り付ける、こう白黒映像を定義しておきましょう。
すべてが現在
なぜ私たちが『彼らは生きていた』において白黒映像がカラーになった瞬間驚くのか。
その瞬間、私たちは「白黒映像=過去」として、映された現実に「過去という表象」を張り付けていた、私たちは白黒映像で写された現実を過去として認識していた、まさにその私たちの現実に対する暗黙の認識の在り方自体が、観客の眼前に突きつけられるから、私たちは驚くのです。
私たちは、あまりに当たり前に「白黒映像=過去」と認識していて、でもそう認識していたがゆえに写された現実の多くの細部を、その肌触りを、そこに生きられた人の感情を、見ることができていなかったことに気づくのです。
実際、「過去」なるものは存在するのでしょうか。過去は現在から想起された時にのみ過去になり、『彼らは生きていた』で描かれた、塹壕の中で片付けられる余裕もなく蛆虫がたかる死者は、私たちが日々会社に行き、仕事をして夜酒を飲んで寝る日常と同じように、彼らにとってはまぎれもなく現在であるわけです。
私たちの現在と彼らの現在は、現在であるという点でなんの違いもありません。ただそれを映像というメディアが過去にしているだけではないでしょうか。
「過去は過去だろう」。確かにそうでしょう。
しかし、私たちがある時間を過去として認識することで、過去として認識された現実の多くの豊かな細部を私たちは認識し損なってしまいます。であるならば、それも同じ現在として認識することで、その多くの豊かな細部を認識することも、必要だと思います。
彼らは生きている
「彼ら」を過去の存在にしている点で、『彼らは生きていた』という日本語タイトルは、この作品の本意をとらえそこなっているのではないでしょうか。
原題“They shall not grow old”のように、彼らはカメラの向こう側の現実で年を取らず生きているのです。そうしたことを感じさせるこの映画が用いたAI技術も、どんどん大衆化されることによって新鮮な驚きは色あせていくのかもしれません。
だからこそ、今この映画を観ることによって、私たちの暗黙の認識を覆してみる、そのような営みを通じて、私たちのメディアに対する感受性ははぐくまれていくと思います。