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【ディレクター瀬戸口による映画分析】『マイ・ブロークン・マリコ』の物語

【ディレクター瀬戸口による映画分析】『マイ・ブロークン・マリコ』の物語

画像引用:https://happinet-phantom.com/mariko/

みなさん、こんにちは!
エレファントストーンディレクターの瀬戸口です。

私は映像やそのほかの作品を観るとき、物語の構造やセリフの意味などについて分析し、自分なりの見解を見つけて楽しんでいます。

今回は、ずっと気になっていた「マイ・ブロークン・マリコ」について書かせていただきたいと思います。昨年映画化された作品で、原作が複数の漫画賞を受賞しています。この機会に、漫画も購入しました!

この映画のキャラクターについて、物語の構造的な視点から分析させていただきます。
以下、ネタバレを含みます。

『マイ・ブロークン・マリコ』あらすじ

ある日、ブラック企業勤めのシイノトモヨ(永野芽郁)を襲った衝撃的な事件。それは、親友のイカガワマリコ(奈緒)がマンションから転落死したという報せだった――。彼女の死を受け入れられないまま茫然自失するシイノだったが、大切なダチの遺骨が毒親の手に渡ったと知り、居ても立っても居られず行動を開始。包丁を片手に単身“敵地”へと乗り込み、マリコの遺骨を奪取する。幼い頃から父親や恋人に暴力を振るわれ、人生を奪われ続けた親友に自分ができることはないのか…。シイノがたどり着いた答えは、学生時代にマリコが行きたがっていた海へと彼女の遺骨を連れていくことだった。道中で出会った男・マキオ(窪田正孝)も巻き込み、最初で最後の“二人旅”がいま、始まる。

引用:https://happinet-phantom.com/mariko/

物語における、マリコとマキオの存在

まず初めに、主要2キャラクターについて、映画の物語の構造的な面から考えてみます。

“物語”の定義は、下記の通りです。
「その特徴は,中心となる人物の行動を軸として,作品が始め,中間,終りからなる完結性をもつことであろう。」(引用:https://kotobank.jp/word/narrative-1251479

主人公シイノに“マイ・ブロークン・マリコ”という物語を始めさせたのは、“マリコの死”です。その後もこの映画の中で、終始マリコはシイノの“行動の理由”になっています。亡き人物でありながら、手紙や思い出、シイノヘ与える怒りや疑問が物語を進展させる鍵となっている点で、マリコはこの映画内でシイノを動かすエンジンのような役割を担っていました。

反対にマキオは、映画内においてシイノヘのブレーキ的な役割を果たしていました。シイノの中のマリコに対するエネルギーをコントロールし、物語を“終わり”へと向かわせる役割です。“飛び降りをしたが生きている”というマリコと真逆の存在が、シイノが“マリコの死”から“これからの自分の生”に向き合うきっかけとなっていました。

謎のマスクマンと、マリコの反逆

映画のラスト近く、シイノがまりがおか岬で2回出会う謎のマスクマン。バイクのヘルメットに隠れた顔はおろか、全身黒い服で包まれた身体は、肌が見える場所がありません。年齢や性別も明かされていないため、ここでは“マスクマン”と呼びます。

私には、マスクマンは物語における“理不尽の具現化”としての存在に見えました。マスクマンが犯したひったくり・痴漢は、“誰もが被害者になる可能性がある”“被害者にとって、被害を受ける理由がない理不尽さを持つ”暴虐です。これは、マリコが生涯、父や恋人から受けた暴力と重なります。

まりがおか岬でシイノとマリコが抱き合うシーンで、2人はこのような会話を交わします。

マリコ「お願いシイちゃん、お前が悪かったんだって言って。そうじゃないとおかしいでしょ。割に合わないでしょ。」

シイノ「ううん、マリコ。あんたはなんも悪くない。あんたの周りの奴らがこぞって自分の弱さをあんたに押し付けたんだよ。」

この会話から、マリコは周囲から受けた理不尽な暴虐に、諦めと、内なる怒りを感じていたように伺えます。だからこそ、この物語に、マスクマンが“特定の誰か”として物語に登場したのではなく、理不尽の具現化”として現れたのだと思います。

ススキの中を走るマスクマンを、シイノがマリコの骨壺で殴るシーン。この瞬間は、生前様々な暴力を受け止め苦しんでいたマリコが、初めて“理不尽への反逆”をする瞬間です。骨壺が、生前父や恋人から暴力を受けていた部屋の中や、ひいて暴力に閉じ込められた彼女の人生を暗喩するのであれば、骨壺が壊れた瞬間は“反逆”の後“暴力によって閉鎖された人生からの解放”を象徴しているように思います。

二人の旅の行方

まりがおか岬で咲き誇るススキの花言葉は、「活力」「生命力」です。マキオがシイノに「もういない人に会うには、自分が生きているしかないんじゃないでしょうか」と言うように、この旅を経て、シイノの中でマリコが“悲しい存在”“面倒くさい存在”“怖い存在”としてではなく、ただ“ダチ”として生きられるようになったように見えました。シイノもまた、まりがおか岬からの帰りの電車で弁当をかきこんだように、自分の“生”を受け入れ、全うする気持ちに変化したように思います。

もしかしたら、二人が一緒に生きるには、それしか方法がなかったのかもしれません。「おばあちゃんになっても、シイちゃんとずっと一緒にいる」と言っていたマリコは、現実世界に存在するのがあまりに辛く、“シイノの中で生きる”ことしか、他に方法がなかったのかもしれません。

「マイ・ブロークン・マリコ」が表すもの

この映画を観る際、「マイ・ブロークン・マリコ」という、タイトルについて考えていました。マリコの弱々しく、危うく、壊れた人物像が表されているのかと思っていましたが、この記事を書きながら少し違うかもなと感じました。弱かったのはマリコではなく、周りの人間達です。この一文は、そしてこの映画の“マリコ”という存在は、「“弱い人間によって壊された”マリコ」を表しているように思います。

誰かの“弱さを他人に押し付ける”という行為によって、受け止めた人の人生に歪みが生じて、歪みが生じた人の周りの人の人生にも影響を及ぼしていきます。誰かが自分の中に留めきれなかった“弱さ”による“暴虐”は、そうやって複数の人生に連鎖し、自分が見えているよりも沢山の人を傷つけていくのだと、この映画を観て感じました。

この映画は、私の中で人間の弱さと人生の連鎖と自分の在り方について考えるきっかけになりました。そしてまだこの先ももう少し、この映画に描かれている人物や物語について自分の中で熟慮して、ゆっくり心に落とし込んでいきたいと感じています。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
何かの作品を観る際は、このように、色々と考えながら、自分なりの見解を見つけて楽しんでいます。ただ、ここで大切なのは、私の見解が決して正解ではないということ。みなさんもぜひ、ご自分の視点で、映画を楽しんでください!

この記事を書いた人

瀬戸口史賀
エレファントストーンのディレクター

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